箕作阮甫旧宅

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箕作阮甫旧宅(表紙)

国指定史跡 箕作阮甫(みつくりげんぽ)旧宅


パンフレット表紙



旧宅内部 旧宅内部

〔旧宅の史跡指定〕

●名  称箕作阮甫旧宅
●所在地岡山県津山市西新町6番地
●指定基準特別史跡名勝天然記念物及び
史跡名勝天然記念物指定基準史跡7(旧宅)による。
●官報告示昭和50年3月18日付け
文部省告示第30号

〔解体復元概要〕

●総事業費 22,815,000円
(解体)着工 昭和50年3月18日
竣工 昭和50年3月28日
(復元)着工 昭和50年12月27日
竣工 昭和51年12月25日
●解体復元の箇所及び規模
箕作阮甫旧宅(母屋、土蔵、井戸、勝手、便所、廊下、塀)  150平方メートル
●解体復元方針
 箕作阮甫旧宅は、指定当時建物全体が老朽化し、損傷も激しく、根本的に解体復元を要する状態となっていた。
 解体に当たっては、旧来の構造、様式(阮甫在住期)を見い出すことに努めたが、解体の結果、当時の遺構は判明しなかった。そのため復元に当たっては、復元方針を江戸末期の町家におき、解体実測調査資料、残存する痕跡、近隣の町家等を参考にして復元工事を実施した。



箕作阮甫編訳の一部(津山洋学資料館蔵)

和蘭文典(オランダぶんてん) 和蘭文典(オランダぶんてん)

泰西名医彙講(たいせいめいいこう) 泰西名医彙講(たいせいめいいこう)

官板 玉石志林(ぎょくせきしりん) 官板 玉石志林(ぎょくせきしりん)




箕作阮甫(みつくり げんぽ)

箕作阮甫(みつくり げんぽ)肖像 箕作阮甫(みつくり げんぽ)肖像
(1)略歴
 箕作阮甫(名は虔儒、字は痒西、号は紫川)は、箕作貞固(三代丈庵)の第三子として、1799年(寛政11年)9月7日西新町に生れ、1812年(文化9年)戸川町に転居するまでの13年間をこの旧宅ですごした。
 箕作家は近江源氏佐々木の族といわれ、室町時代六角承禎の父定頼が、近江国箕作城(現在の滋賀県五箇荘町)に住んで箕作を称したのに始まる。その後箕作家は、戦乱の世幾多の変遷を経て、美作の国に移り、現在の岡山県英田郡美作町楢原に住んだのである。医家としての箕作は、阮甫の曾祖父貞辨(初代丈庵)からで、西新町に住み開業した。父貞固(三代丈庵)の代になり、1782年(天明2年)10月24日、津山松平藩の「御医師並」に召し出されて十人扶持をもって町医者から藩医に取り立てられた。
 阮甫は、父・兄の没後家督を継ぎ、藩の永田敬蔵(桐陰)・小島廣厚(天楽)から儒学を学ぶ一方、1816年(文化13年)には京都に出て、竹中文輔のもとで3カ年間医術習得にはげんだ。1819年(文政2年)には、修業を終えて京都から帰り、本町三丁目で開業、翌年大村とゐと結婚した。やがて高50石御小姓組御匙代にすすみ、1823年(文政6年)には、藩主の供で江戸に行き、津山藩医宇田川玄真(榛斎)の門に入り蘭学の習得に努めた。以後、学問研究のため三年間江戸詰の許可を得た。いったん津山に帰ったが、1831年(天保2年)以後は、家族とともに江戸に住んだ。1839年(天保10年)には、幕府天文台に出役し、「蕃書和解御用」を命ぜられた。1853年(嘉永6年)6月のペリー来航(アメリカ使節)に際しては、外交文書の翻訳に当たり、また7月のプチヤーチン来航(ロシア使節)に際しても、幕府使節(筒井政憲・川路聖謨)に随行して外交書簡の翻訳に携わった。1855年(安政2年)3月に隠居したが、幕末の状況はこれを許さず、翌年には「蕃書調所教授職」に再度登用され、1862年(文久2年)には、洋学をもってはじめて幕府直参に取り立てられたが、翌1863年(文久3年)6月17日、江戸湯島天神中坂下で没した。行年65歳であった。

箕作家関係の系図 箕作家関係の系図

(2)業  績
 洋学者箕作阮甫の果たした業績は、大別して次の3点に分かれる。
 第1点は、深い教養に加え、持ち前の語学カを発揮して、ペリー、プチヤーチンの来航時に外交文書の翻訳に携わり、日本の外交交渉に重要な役割を果たしたことがある。
 第2点は、著作に専念し、医学関係に限らず語学・地理・歴史・兵学等多岐にわたって出版するなど、洋学の発展に寄与したことである。主な著書としては、次のようなものがある。
「泰西名医彙講」(医 学)
「和蘭文典」(語 学)
「海上砲術全書」(兵 学)宇田川榕菴と共著
「水蒸船説略」(造船学)
「八紘通誌」(地 理)
   第3点は、その一族・一門から明治維新前後から現代に至るまで、日本近代科学の基礎を築き、その興隆、発展につくした著名な学者を数多く輩出したことにある。



箕作阮甫年譜

西 暦元 号記   事
1799年寛政11年 9月7日、津山藩医箕作貞固(三代丈庵)の第三子として西新町に生れる。
1810年文化7年 9月13日、兄豊順が亡くなったので家を継ぐ。(長兄はすでに天折。)
1815年12年 永田敬蔵(桐陰)及び小島廣厚(天楽)に漢籍を学ぶ。
1816年13年 3月、京都に出て、竹中文輔方に寄宿し、医術を修業する。
1821年文政4年 11月24日、大村とゐと結婚する。
1822年5年 6月21日、高50石御小姓組御匙代となる。
1823年6年 5月、藩主の供をして江戸に出て、蘭学を志し、宇田川玄真(榛斎)の門に入る。
1828年11年 ※この年「シーボルト事件」起こる。
1831年天保2年 3月、10年間の江戸詰のため妻子を伴い、江戸鍛冶橋の藩邸に移る。
1835年6年 「泰西名医彙講」出版
1839年10年 ※5月、「蛮社の獄」起こる。
6月、幕府天文台に出役し、蕃書和解御用に携わる。
1842年13年 「和蘭文典」前編出版。
1843年14年 宇田川梅毒らと「海上砲術全書」出版。
1848年嘉永元年 「和蘭文典」後編出版。
1849年2年 「水蒸船説略」出版。
1851年4年 「八紘通誌」・「外科必読」出版。
1852年5年 杉田成卿と「軍用火箭考」出版。
1853年6年 ※6月3日、アメリカ合衆国使節ペリー浦賀に来航。
※7月18日、ロシア使節プチヤーチン長崎に来航。
10月、ロシア使節応接の川路聖護・筒井政憲に随行して長崎に行く。
「西征紀行」を書く。
1854年安政元年 10月、ロシア使節応接の幕府使節に従って下田に行く。
「南下紀行」を書く。
1856年3年 4月4日、「蕃書調所」の教授職になる。
1858年5年 5月7日、伊東玄朴らと神田お玉が池に種痘館を開設する。
※6月19日、日米修好通商条約調印。
1862年文久2年 5月18日、幕府「蕃書調所」を一橋門外に新築移転し、 「洋書調所」と改称する。
※8月21日、「生麦事件」起こる。
12月28日、幕臣に列せられる。
1863年3年 6月17日、湯島天神中坂下で没する。(行年65歳)



Mitukuri Hyoushi 旧宅

〔箕作阮甫旧宅案内〕

●休  日月曜日(但し月曜日が祝祭日のときは休みなし)
●公開時間午前9時30分〜午後4時30分
●入場無料 

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