La Revuo Orienta

「エスペラント」誌から

「特集・最近の反エスペラント論を検証する」
第64巻7号(1996年7月)より

・エスペラントはどこまで人工語か?(佐藤勝一/宮古短期大学)

・言語にとっての運動とは? (後藤斉/東北大学文学部)


「エスペラントのような文化的背景を持たない人工的言語は理想は
とにかくも存立しえない」(1996/1/26)朝日新聞・夕刊

エスペラントはどこまで人工語か?

佐藤勝一

 エスペラントを攻撃する人たち,あるいは攻撃しないまでも認めようとしない人たちの第一番の理由に,こんな「人工語」はロボットなんかが話すならともかく,およそ思想も感情もある人間がこれを使うなんてとんでもない,そんなことばは海外旅行をしてもどこでも話されていない,第一,文化など何一つないじゃないか,という意見がある。エスペランティストの多くは,長い間このような反対論にさらされるうちに自らも反論するのが面倒になって,おとなしくやりすごしてしまうらしい。
 しかし,エスペラントが創案されて110年近い歴史の試練をへた今日,幸いなことは日本の知識人のなかには,いまなお熱心にこの言語を支持する人たちがいる現実を私たちは容易に忘れてはならない。
 その一人佐高信(さたか・まこと)氏は「噂の真相」93年10月号の「シリーズ・ニッポン文化低国を撃つ!」の「タレント文化人筆刀両断!」のなかで,「自分ではこの世界語を話せないが,Jリーグのサポーターのように熱心なファンなのである」として,まず独裁者たちによるエスペラント弾圧の歴史に触れたあとで,「そうした歴史も知らずに,自称国際派の加瀬英明はエスペラントを非難した。よりによって,宮沢賢治の『美しい詩』と対比して,その人工性を批判したのだが,賢治がエスペラントの熱心な支持者だったことを知らなかったのはお笑いだった。賢治の童話には,地名や人名にエスペラントが効果的に使われている」と指摘したばかりか,返す刀でもう一人コッケイな「文化人」は建築家の黒川紀章だ,としてこう書いている。「黒川はある講演で,『私はエスペラントの反対運動をやっております』と言っている。彼によれば『エスペラント語というのは将来,地球上の人がみんな同じ言葉,エスペラント語を喋るという言語の普遍化』で,『共生の思想』に反するという。川端康成の『雪国』や三島由紀夫の『金閣寺』は日本語の質感で書かれたものだからすばらしいので,エスペラント語ではダメなのだ,と主張する。---エスペランチストたちは,むしろ,『共生』をめざしているのである。あるいは黒川は,ヒトラーがエスペラントを潰そうとしたから自分も反対だというのだろうか」と,痛切にその無知を批判している。
 エスペラントが一人のポーランド系ユダヤ人の手によって創造されたことには間違いがない。しかし,この言葉は,語彙にしても統語法にしても,どこまでが「人工語」であるといえるのか,指摘できるのは「知識人」という人たちのなかでもきわめて少ない。
 私はエスペラントが「100%人工的」といえるのは,いわゆる"Zamenhofa tabelo"として知られる「相関語」だけだと説明している。普通,kio, tio, io, c^io, nenioなどの45語で知られるあの一覧表である。(私は,kien, tien, ien, c^ien, nenienを加えて50語として教える。この相関語はハンガリーのSzilagyi(シラジ)の表で覚えるのが簡単)しかし,100%ザメンホフの独創といるこの表にしても,英語を学んだものにとっては,たとえば,what - that / where - there / when - then などの語形の相関にその片鱗を見ることができるのだから,少なくとも「ヨーロッパ語」の特質はちゃんと備えていることを無視できないのである。


「はたして言語は運動として可能なのだろうか」(1994/1/5)産経新聞

言語にとっての運動とは?

後藤 斉

 エスペラントに対する偏見の一つに運動に基づく言語が可能か,という疑問がある。 人が生まれてから親や兄弟が使っているのを聞いて覚えるのが自然なプロセスであり,意識的な運動によらなければ存立しえないエスペラントはいわば自然の法則に反している,というのである。
 しかし,これは事実ではない。「運動」の定義によっては,すべての文字を持つ言語は運動の所産であるとさえ言える。自分の話を録音して聞き直せばすぐにわかるが,話し言葉はそのままでは文章にならない。体裁の整った文章にするためには,程度の差こそあれ,書き手の側に意識的な努力が必要である。そして社会的に一定のレベルを維持するために学校教育や文芸運動が行われている。
 もっと典型的な「運動」によって古代語を復活させた例としては,イスラエルのヘブライ語がよく知られている。これほど極端でなくとも,政治的・経済的に不利な条件のなかで自らの言語を守り通している例は少なくない。スペインの少数言語であるバスク語やカタラン語などはそのような例と言えよう。
 さらに,実は,5000とも8000ともいわれる世界の言語の大部分は,現在では意識的な運動なしにはすでに存立しえなくなっているのである。多くの生物の種(しゅ)が消えつつあることは,生態系の破壊と関連してマスコミで報道されている。それに比べて一般に報道されることはあまりないが,同様に,言語の数も減りつつある。悲観的な観測では今後の100年間で1割程度にまで減るだろうとも言われている。
 言語の統合が進むことは,一見して好都合なことのように思える。一つのことばで話し合える人の数が増えるのだから。特に経済的な見地からはまことに望ましいことであろう。
 しかし,言語の消滅は文化の消滅である。言語の多様性が消えることは人間の可能性の幅が狭められることである。人間の本質を知るための手掛かりが失われることでもある。このため,世界の良心的な言語学者は「危機に瀕した言語」の保存を現在の急務と考えている。日本でも,最近,東京大学文学部にこれを専門とする研究施設が設置された。
 「危機に瀕した言語」を話す人々の対応はまちまちである。もちろんすすんで代言語に乗り換える人々も多い。実生活での便宜を考えれば当然の選択とも言える。しかし,その一方で,自分たちの言語を守るために積極的に運動を繰り広げている人もまた少なくない。政治的・経済的な運動と結びついていることが多いが,創作活動・出版活動を奨励し,学校の内外での言語教育を行うなど,言語に関する運動の要素も当然含まれる。
 他方,積極的な運動にもかかわらず,先行きに不安のある言語もまた多い。南フランスのオック語は中世には一大文化を担っていたが,その後フランス語の勢力に押され,矯正すべき方言とみなされるにいたった。今世紀には復興運動が起こり,地道な活動が展開されたが,話し手の減少傾向・老齢化に歯止めはかかっていない。
 言語が親から子へ伝えられるというプロセスは確かに自然なものであろう。けれども,社会現象としての言語はそれほど単純なものではない。特に現在は,言語においても当事者や第三者による保護運動を必要とするほどに世界の各地で自然破壊が進んでいるのである。運動に基づく言語だから自然に反しているという見解は,あまりにもナイーヴな考え方であって,現実に即していないのである。