英語帝国主義と「自由主義」史観
(週刊金曜日投書)
ヤマダカント
本誌
(週刊金曜日)に関する読書会で「「自由主義史観」の人々は「英語帝国主義」の批判はしないんですか。」という疑問が出された。
「英語帝国主義」批判には大きくわけてふたつの論調がある。ひとつは徹底した言語平等主義にもとづく批判である。世界中のあらゆる言語は同等の価値をもっているのだからそのうちのひとつの言語に特別に高い価値や低い価値が与えられるべきではないという考え方である。
いまひとつは英語による支配のみを批判するものである。この立場の人々は「英語帝国主義」に実力で異議申立を行おうとする。そこで用いられる武器は日本語である。彼らは、話者の数、背景にある経済力など英語に対抗できるだけの資質が日本語にはあると考え、日本語を海外に普及することによって英語に対抗しようとする。要するに「英語帝国主義」に「日本語帝国主義」で対抗しようというのである。ここから想像されるのは戦前日本の植民地における日本語強制だが彼らはそれとのつながりは否定する。武力で押しつけているわけではないからと。しかし英語もまた武力で押しつけられているのではない。
また彼らは英語以外の多様な言語教育も提案している。しかしそれは言語平等主義にもとづく発想ではなく戦略的実利的なものである。したがってアイヌ語や琉球語、手話などの身近な言語は眼中になく、中国語、朝鮮語、ロシア語、ペルシャ語、タイ語などの経済的利益、治安維持に直結する言語教育にのみ力を入れる。
こうした発想がいわゆる「自由主義史観」と結びつきやすいことは容易に想像ができる。「英語帝国主義」批判といっても言語平等主義にもとづかないこうした発想の存在することを頭に入れながらこの問題に関する議論に注意深く耳を傾けるようにしたい。