| 西 暦 | 元 号 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1668 | 寛文8 | 西玄甫「医術伝習証明書」を受ける |
| 1677 | 廷宝5 | 久原甫雲「和蘭陀流外科免許状」を受ける |
| 1720 | 享保5 | 禁書令緩和される |
| 1759 | 宝暦9 | 山脇東洋「蔵志」を刊行 |
| 1771 | 明和8 | 前野良沢・杉田玄白・中川芽庵、江戸千住小塚原にて 女刑屍の解剖を観察する。 その翌日より「ターヘルアナトミア」の翻訳を始める |
| 1774 | 安永3 | 「解体新書」刊行 |
| 1778 | 安永7 | 大槻玄沢、杉田玄白の門人となる |
| 1779 | 安永8 | 宇田川玄随、桂川甫周につき蘭方医学を学ぶ |
| 1783 | 天明3 | 「蘭学階梯」できる |
| 1786 | 天明6 | 小林令助、杉田玄白に師事する |
| 1792 | 寛政4 | 宇E削ll玄随『西説内科撰要』一八巻訳でき、翌年より逐次刊行 |
| 1794 | 寛政6 | 大槻玄沢ら新元会(オランダ正月)を開く |
| 1796 | 寛政8 | 「波留麻和解」刊行 |
| 1797 | 寛政9 | 宇田川玄随没。のち門人安岡玄真が宇田川家を継ぐ。 |
| 1805 | 文化2 | 宇田川玄真「醫範提綱」を刊行 |
| 1808 | 文化5 | 宇田川玄票「醫範提綱内象銅版図」を刊行 |
| 1811 | 文化8 | 幕府、天文万事吉和解御用を設置 |
| 1812 | 文化9 | 大槻玄沢「重訂解体新書」刊行 |
| 1813 | 文化10 | 宇田川玄真、蕃書和解方に出仕する |
| 1815 | 文化12 | 杉田玄白「蘭学事始」できる |
| 1819 | 文改2 | 小林令助出石藩医に招晴される |
| 1820 | 文政3 | 馬場貞由「遁花秘訣」訳完成 |
| 1822 | 文改5 | 宇田川玄真「遠西醫方名物考」・宇田川榕菴「菩多尼詞経」刊行 |
| 1824 | 文政7 | シーボルト、鳴海塾を開く 石井宗謙・石坂桑亀、シーボルトに師事する |
| 1826 | 文政9 | 宇田川榕菴、蕃書和解方に出仕する |
| 1828 | 文政11 | シーボルト事件起こる |
| 1835 | 天保6 | 宇田川榕菴「植学啓原」刊行 |
| 1836 | 天保7 | 箕作阮甫「泰西名醫彙講」第一集刊行 |
| 1837 | 天保8 | モリソン弓事件 宇田川榕菴「舎密閉宗」刊行 |
| 1839 | 天保10 | 蛮社の獄 箕作阮甫、蕃書和解方に出仕する |
| 1841 | 天保12 | 高島秋帆、江戸徳丸ケ原で西洋式砲術演習 |
| 1844 | 弘化元 | 箕作省吾「新製輿地全図」刊行 |
| 1845 | 弘化2 | 箕作省吾「坤輿図識」刊行 |
| 1846 | 弘化3 | 宇田川興斎、著書和解御用に任命 |
| 1849 | 嘉永2 | 箕作阮甫「水蒸船説略」訳できる |
| 1853 | 嘉永6 | ペリー(米)、浦賀へ入海 フチャーチン(露)、長崎へ入薦 箕作阮甫、川路聖譲とともに長崎に赴き、外交交渉に携わる |
| 1854 | 安政元 | 米・英・露と和親条約を結ぶ |
| 1855 | 安政5 | 幕府、洋学所を設置 |
| 1856 | 安政3 | 洋学所改め蕃書調所発足 箕作阮甫、同所教授職となる |
| 1857 | 安政4 | 宇田川興斎「英吉利文典」刊行 |
| 1858 | 安政5 | 安政の大獄始まる |
| 1860 | 万廷元 | 仁木永祐、籾山校を開く 江戸の種痘所が官許となる 久原洪哉らが中心となって、津山に種痕所が開かれる |
| 1861 | 文久元 | 箕作秋坪、開市・開港延期交渉使節団の一員として欧州5ケ国歴訪 |
| 1862 | 文久2 | 蕃書調所改め洋書調所となる 箕作阮甫、幕臣に列す 津田真道、オランダ留学 |
| 1863 | 文久3 | 薩英戦争起こる |
| 1866 | 慶応2 | 津田真道「泰西国法論」刊行 箕作秋坪、三叉学会設立 |
| 1868 | 明治元 | 明治維新 |
| 1870 | 明治3 | 久原洪哉、津山藩主夫人の乳癌を治療 |
宝暦5年(1755)、江戸に生まれる。津山蒲医。名は晋(しん)、槐園(かいえん)と号した。元来漢方の医者として津山藩に仕えていたが、安永8年(1779)蘭学に転向した。桂川甫周に就き、杉田玄白・前野良沢にも教えを受けた。甫周のすすめでヨハネス・デ・ゴルテル著の「簡明内科書」を翻訳して、日本初の内科書「西説内科撰要」として刊行した。ほかに「遠西草木略(えんせいそうもくりゃく)」、「東西病考(とうぎいぴょうこう)」などがある。寛政9年(1797)「内科撰要」の刊行途中に没した。
名は、良民、恵圃(けいほ)と号す。天明8年(1788)久米北条郡境村(現久米郡中央町)に生まれる。初め吉益南涯(よしますなんがい)・華岡鹿城(はなおかろくじょう)(青洲の第)の門に入り、ついでシーボルトの鳴滝(なるたき)塾に学ぶ。のち福渡で開業、備前足守藩医となる。藩主に献策して藩財政の回復に努め、寵遇(ちょうぐう)を受けたが、辞して倉敷に移り洋学を講じた。晩年は郷里に帰り、嘉永4年(1851)建部で没した。
明和6年(1769)に生まれる。出生地は京都とも伊勢ともいわれている。名は燐(りん)、榛斎(しんさい)と号した。津山藩医。伊勢の安岡家出身。宇田川玄随の門に入り、漢学を学ぶ。のち、大槻玄沢に蘭学を学んだ。玄沢の推挙を受け、杉田玄白の養子となったが、離縁される。その後、蘭学の修業に励み、玄随の死後、稲村三伯らの推薦により、宇田川家の養子となった。幕府の天文台の翻訳員となってショメール百科事典の翻訳に携わった。江戸時代のベストセラー医学書「醫範提綱(いはいていこう)」のほか、「和蘭薬鏡」、「遠西醫方名物考(えんせいいほうめいぶつこう)」などを著した。天保5年(1834)に没した。
名は榕、津山藩医。大垣藩医江沢養樹(えざわようじゅ)の長男として寛政10年(1798)に生まれた。文化8年(1811)宇田川玄真の養子となる。幼少より博物学を好む。「植学啓原」・「舎密開宗」などを著し、日本における近代科学の確立に果たした意義は大きい。そのほか、西洋音楽理論や音声学など蘭学研究の範囲は広く、コーヒーを日本に紹介したりもしている。また、幕府天文台の翻訳員としてショメール百科事典などの翻訳にもあたった。弘化3年(1846)に没した。
名は寛(かん)、夢霞山人(むかさんじん)と号した。奥州水沢・佐々木秀規(ひでのり)の次男として文政4年(1821)に生まれる。箕作阮甫の門に入り、弘化元年(1844)、阮甫の養子となって阮甫の娘ちまを妻とした。地理学に秀で、「新製輿地全図(しんせいよちぜんず)」・「坤輿図識(こんよずしき)」を著し、幕末の世界知識の啓蒙に寄与した。弘化3年(1846)に没した。
名は虔儒(けんじゅ)、紫川(しせん)または逢谷(ほうこく)と号した。津山藩医。寛政11年(1799)津山西新町に生まれた。京都に出て医学を学び、のち、宇田川玄真の門に入る。幕府天文台翻訳員となり、蘭書・外交文書の翻訳にあたった。嘉永6年(1853)、ロシア使節の来航に際し長崎に赴き、安政2年(1854)には伊豆下田でプチャーチンとの外交交渉に携わった。日本最初の医学雑誌「泰西名醫彙講」をはじめ、「外科必読」・「産科簡明(さんかかんめい)」・「和蘭文典」・「八紘通誌(はっこうつうし)」・「水蒸船説略(すいじょうせんせつりゃく)」「西征紀行」など玩甫の訳述書は99部160冊余りが現在確認されている。その分野は医学・語学・西洋史・兵学・宗教学と広範囲にわたる。文久3年(18℃3)に没した。
津山藩預所学校付儒者菊池文理の次男として文政8年(1825)備中呰部(あざえ)に生まれた。江戸に出て箕作阮甫の門人になり、のちに緒方洪庵の適塾に入門した。
天保元年(1830)東北条郡下津川村(現苫田那加茂町)に生まれ、現津山市籾保の医師仁木隆助の養子となった。嘉永元年(1848)江戸に出て箕作阮甫・宇田川興斎に入門し、医学を修めた。その後、郷里に帰り医業の傍ら籾山校を開き近在の子弟の教育にあたった。明治になって自由民権運動に参加する。明治35年(1902)に没した。
名は濾(えい)、号は仙嶼(せんしょ)。美濃大垣の医師飯沼慾斎の三男として文政4年(1821)に生まれ、宇田川榕菴の養子となる。のち、蕃書和解御用手伝となり箕作玩甫らと共に「日本風俗備考」等の翻訳にあたった。また、時勢を顧みて、英学に手をつけ、「英吉利文典(イギリスぷんてん)」ほ著したほか、「万宝新書」・「山砲用法」等訳書も多い。廃藩後一時津山北町に住んだが、間もなく東京に移り、明治20年(1887)に没した。
文政7年(1824)西北条郡井村(現苫田郡鏡野町)に生まれ、石川元翠(いしかわげんすい)・広瀬元恭(ひろせげんきょう)に蘭学を、華岡南洋(なんよう)に外科を学ぶ。明治3年(1870)には津山藩主夫人の乳癌の手術をした。長男躬弦(みつる)は貢進生として大学南校に進み、京都大学教授および総長となった。また、津山藩医久原家の初代良賢(よしかた)(甫雲)は、西玄甫よりオランダ流外科免許状を授与された。明治29年(1896)に没した。
文政12年(1829)東南条郡林田町(現津山市上之町)に生まれる。幼時に漢学と国学を学び、のち、江戸に遊学、箕作阮甫・伊東玄朴(いとうげんぽく)に蘭学を、佐久間象山(さくましょうざん)に兵学を学んだ。安政3年(1856)蕃書調所の教授手伝となり、オランダに留学、帰朝後、明治政府に出仕した。また、明六社に参画し、明六雑誌に種々の論文を発表した。司法省陸軍省・元老院議官を歴任し、衆議院議員・同副議長・貴族院議員となり、法学博士を授けられ男爵となった。明治36年(1903)に没した。
中庭
展示室
| ●会館時間 | 午前9時〜午後5時 (ただし入館は午後4時30分まで) |
| ●休館日 | 月曜日・祝祭日の翌日・12月27日〜1月4日 |
| 区分 | 個人 | 団体 |
|---|---|---|
| 一般 | 150円 | 120円 |
| 高校生・大学生 | 100円 | 80円 |
| 小学生・中学生 | 50円 | 40円 |