津山洋学資料館

TSUYAMA ARCHIVES OF WESTERN LEARNING
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津山洋学資料館(表紙)

建物概要

当資料館の建物は、大正9年に妹尾(せのお)銀行として建てられ、その後、第一合同銀行・中国銀行津山東支店として昭和48年まで使用されていました。神社仏閣風の外観で千鳥破風入母屋造り(ちどりはふいりもやづくり)天然ストレート葦の大屋根、内部はモザイクパーケット貼、腰はケヤキの玉目(たまめ)のあるものを鏡板(かがみいた)として使用した本館とレンガ造りの展示室からなる和洋折衷の建物です。大正期の優れた建築技術を示すものとして、注目されています。



年譜

西 暦元 号出来事
1668寛文8 西玄甫「医術伝習証明書」を受ける
1677廷宝5 久原甫雲「和蘭陀流外科免許状」を受ける
1720享保5 禁書令緩和される
1759宝暦9 山脇東洋「蔵志」を刊行
1771明和8 前野良沢・杉田玄白・中川芽庵、江戸千住小塚原にて
女刑屍の解剖を観察する。
その翌日より「ターヘルアナトミア」の翻訳を始める
1774安永3 「解体新書」刊行
1778安永7 大槻玄沢、杉田玄白の門人となる
1779安永8 宇田川玄随、桂川甫周につき蘭方医学を学ぶ
1783天明3 「蘭学階梯」できる
1786天明6 小林令助、杉田玄白に師事する
1792寛政4 宇E削ll玄随『西説内科撰要』一八巻訳でき、翌年より逐次刊行
1794寛政6 大槻玄沢ら新元会(オランダ正月)を開く
1796寛政8 「波留麻和解」刊行
1797寛政9 宇田川玄随没。のち門人安岡玄真が宇田川家を継ぐ。
1805文化2 宇田川玄真「醫範提綱」を刊行
1808文化5 宇田川玄票「醫範提綱内象銅版図」を刊行
1811文化8 幕府、天文万事吉和解御用を設置
1812文化9 大槻玄沢「重訂解体新書」刊行
1813文化10 宇田川玄真、蕃書和解方に出仕する
1815文化12 杉田玄白「蘭学事始」できる
1819文改2 小林令助出石藩医に招晴される
1820文政3 馬場貞由「遁花秘訣」訳完成
1822文改5 宇田川玄真「遠西醫方名物考」・宇田川榕菴「菩多尼詞経」刊行
1824文政7 シーボルト、鳴海塾を開く
石井宗謙・石坂桑亀、シーボルトに師事する
1826文政9 宇田川榕菴、蕃書和解方に出仕する
1828文政11 シーボルト事件起こる
1835天保6 宇田川榕菴「植学啓原」刊行
1836天保7 箕作阮甫「泰西名醫彙講」第一集刊行
1837天保8 モリソン弓事件
宇田川榕菴「舎密閉宗」刊行
1839天保10 蛮社の獄
箕作阮甫、蕃書和解方に出仕する
1841天保12 高島秋帆、江戸徳丸ケ原で西洋式砲術演習
1844弘化元 箕作省吾「新製輿地全図」刊行
1845弘化2 箕作省吾「坤輿図識」刊行
1846弘化3 宇田川興斎、著書和解御用に任命
1849嘉永2 箕作阮甫「水蒸船説略」訳できる
1853嘉永6 ペリー(米)、浦賀へ入海
フチャーチン(露)、長崎へ入薦
箕作阮甫、川路聖譲とともに長崎に赴き、外交交渉に携わる
1854安政元 米・英・露と和親条約を結ぶ
1855安政5 幕府、洋学所を設置
1856安政3 洋学所改め蕃書調所発足
箕作阮甫、同所教授職となる
1857安政4 宇田川興斎「英吉利文典」刊行
1858安政5 安政の大獄始まる
1860万廷元 仁木永祐、籾山校を開く
江戸の種痘所が官許となる
久原洪哉らが中心となって、津山に種痕所が開かれる
1861文久元 箕作秋坪、開市・開港延期交渉使節団の一員として欧州5ケ国歴訪
1862文久2 蕃書調所改め洋書調所となる
箕作阮甫、幕臣に列す
津田真道、オランダ留学
1863文久3 薩英戦争起こる
1866慶応2 津田真道「泰西国法論」刊行
箕作秋坪、三叉学会設立
1868明治元 明治維新
1870明治3 久原洪哉、津山藩主夫人の乳癌を治療



洋学

それは江戸時代に西洋からもたらされた、進んだ新しい科学知識の総称

洋学

洋学ということばをご存じでしょうか。「西洋の学問」という意味ですが、「蘭(らん)学」といった方 が分かりやすいかも知れません。オランダ(和蘭)語を使って研究する学問ですから、始まったころ は「蘭学」と呼ばれていました。しかし、その研究の中身はオランダだけではなく、西洋の社会全体 が生み出した、進んだ科学知識なのです。
 みなさんがよくご存じの「解体新書(かいたいしんしょ)」も元はドイツの医学書で、オランダ語に翻訳されたものをもとに、日本語に翻訳したのです。江戸時代の日本は鎖国をしており、西洋諸国のうちで交流のあったのはオランダだけでしたので、オランダ語を通してしか西洋の学術に触れることができなかったのです。しかし、幕末に開国してからは、オランダ語以外の英語・フランス語といったいろいろな西洋のことばが入ってきて、日本でもそのことばを使った研究が始まりました。そこで、西洋諸国の学問という意味で「洋学」と呼ばれるようになったのです。また、この時代は西洋諸国が植民地を求めて、アジアに進出して来ようとしていたときでもありました。そのため、植民地政策に対する危機感から、洋学の中身はしだいに医学などの自然科学中心から、応用科学・社会科学へと広がっていったのです。
 そのような状況のもと、幕府が倒れて明治になり、日本の新しい時代が幕を開けました。

津山

津山に本格的に洋学を紹介したのは江戸詰の津山藩医、宇田川玄随(うだがわげんずい)です。彼は桂川甫周(かつらがわほしゅう)・杉田玄白(すぎたげんぱく)学び、日本最初の西洋内科書「西説内科撰要(せいせつないかせんよう)」を訳述しました。玄随の養子の玄真もベストセラーとなった「醫範提綱(いはいていこう)」や「和蘭薬鏡(オランダやくきょう)」を刊行。さらに玄真の養子榕菴(ようあん)は「舎密開宗(せいみかいそう)」・「植学啓原(そくがくけいげん)」といった著述で日本に近代科学を紹介するという役割を果たしました。
 また、津山出身の藩医・箕作阮甫(みつくりげんぽ)も宇田川玄真の門下で洋学を学んでいます。阮甫は「和蘭文典(オランダぶんてん)」や「泰西名醫彙講(たいせいめいいいこう)」などを出版し、当代随一の洋学者とよばれました。その後、箕作家の一族は幕末・明治の日本を代表する優秀な人材を輩出しました。地理学者の箕作省吾(しようご)、フランスの法律を日本に紹介した箕作麟祥(りんしょう)などです。
 このような人々以外にも、美作の洋学者はたくさんいます。江戸で杉田玄白に学び、のち故郷に帰って開業した小林令助(こばやしれいすけ)、箕作阮甫や宇田川輿斎(こうさい)に学んだ仁木永祐(にきえいすけ)、幕末にオランダ留学を果たし「泰西国法論(たいせいこくはうろん)」を著した津田黄道(つだまみち)、明治3年に津山藩主夫人の乳癌(にゅうがん)を手術した久原洪哉(くはらこうさい)、洪哉の長男で、のち、京大教授・総長となった躬弦(みつる)など数え上げればきりがありません。また、明治維新期の偉人を輩出した適塾(てきじゅく)で有名な緒方洪庵(おがたこうあん)は宇田川玄真の孫弟子にあたり、津山洋学の学統に属します。このように津山出身の洋学者たちはさまぎまな活躍をしました。
「新製輿地全図」箕作省吾著 Y「オランダカルタ」宇田川榕菴写 「植学啓原」宇田川榕菴著


美作(みまさか)の洋学者たち

宇田川玄随(1755-1797)

宇田川玄随 西説内科撰要(せいせつないかせんよう)  宝暦5年(1755)、江戸に生まれる。津山蒲医。名は晋(しん)、槐園(かいえん)と号した。元来漢方の医者として津山藩に仕えていたが、安永8年(1779)蘭学に転向した。桂川甫周に就き、杉田玄白・前野良沢にも教えを受けた。甫周のすすめでヨハネス・デ・ゴルテル著の「簡明内科書」を翻訳して、日本初の内科書「西説内科撰要」として刊行した。ほかに「遠西草木略(えんせいそうもくりゃく)」、「東西病考(とうぎいぴょうこう)」などがある。寛政9年(1797)「内科撰要」の刊行途中に没した。

石坂桑亀(いしざかそうき)(1788−1851)

石坂桑亀  名は、良民、恵圃(けいほ)と号す。天明8年(1788)久米北条郡境村(現久米郡中央町)に生まれる。初め吉益南涯(よしますなんがい)・華岡鹿城(はなおかろくじょう)(青洲の第)の門に入り、ついでシーボルトの鳴滝(なるたき)塾に学ぶ。のち福渡で開業、備前足守藩医となる。藩主に献策して藩財政の回復に努め、寵遇(ちょうぐう)を受けたが、辞して倉敷に移り洋学を講じた。晩年は郷里に帰り、嘉永4年(1851)建部で没した。

小林令助(1769−1851)

 名は篤(あつし)、通称令助、皿山(ぺいざん)と号した。明和6年(1769)勝南郡岡村(現勝田郡勝央町)に生まれ、江戸に遊学して杉田玄白に師事、その才を認められたが、郷里に帰って開業した。後年更に吉益南涯に学び、また、出石(いずし)蒲医ともなる。嘉永4年(1851)に没した。

宇田川玄真(1769−1834)

宇田川玄真 醫範提綱  明和6年(1769)に生まれる。出生地は京都とも伊勢ともいわれている。名は燐(りん)、榛斎(しんさい)と号した。津山藩医。伊勢の安岡家出身。宇田川玄随の門に入り、漢学を学ぶ。のち、大槻玄沢に蘭学を学んだ。玄沢の推挙を受け、杉田玄白の養子となったが、離縁される。その後、蘭学の修業に励み、玄随の死後、稲村三伯らの推薦により、宇田川家の養子となった。幕府の天文台の翻訳員となってショメール百科事典の翻訳に携わった。江戸時代のベストセラー医学書「醫範提綱(いはいていこう)」のほか、「和蘭薬鏡」、「遠西醫方名物考(えんせいいほうめいぶつこう)」などを著した。天保5年(1834)に没した。

石井宗謙(いしいそうけん)(1796−1861)

 寛政8年(1796)真嶋郡旦土村(現裏庭郡落合町)に生まれた。シーボルトの鳴沌塾に学び、「日本産昆虫図説」や「日本産蜘蛛(くも)図説jなどを蘭訳し、シーボルトの日本研究を助けた。のち、郷里で医を開き、勝山蒲に召し抱えられたが、やがて藩を辞し、岡山下之町で開業。ついで江戸に移り、文久元年(1861)に没した。
 シーボルトの娘「イネ」との間に一女「タカ」をもうけている。

宇田川榕菴(1798−1846)

宇田川榕菴 舎密開宗  名は榕、津山藩医。大垣藩医江沢養樹(えざわようじゅ)の長男として寛政10年(1798)に生まれた。文化8年(1811)宇田川玄真の養子となる。幼少より博物学を好む。「植学啓原」・「舎密開宗」などを著し、日本における近代科学の確立に果たした意義は大きい。そのほか、西洋音楽理論や音声学など蘭学研究の範囲は広く、コーヒーを日本に紹介したりもしている。また、幕府天文台の翻訳員としてショメール百科事典などの翻訳にもあたった。弘化3年(1846)に没した。

箕作省吾(1821-1846)

坤輿図識  名は寛(かん)、夢霞山人(むかさんじん)と号した。奥州水沢・佐々木秀規(ひでのり)の次男として文政4年(1821)に生まれる。箕作阮甫の門に入り、弘化元年(1844)、阮甫の養子となって阮甫の娘ちまを妻とした。地理学に秀で、「新製輿地全図(しんせいよちぜんず)」・「坤輿図識(こんよずしき)」を著し、幕末の世界知識の啓蒙に寄与した。弘化3年(1846)に没した。

箕作阮甫(1799−1863)

箕作阮甫 泰西名醫彙講  名は虔儒(けんじゅ)、紫川(しせん)または逢谷(ほうこく)と号した。津山藩医。寛政11年(1799)津山西新町に生まれた。京都に出て医学を学び、のち、宇田川玄真の門に入る。幕府天文台翻訳員となり、蘭書・外交文書の翻訳にあたった。嘉永6年(1853)、ロシア使節の来航に際し長崎に赴き、安政2年(1854)には伊豆下田でプチャーチンとの外交交渉に携わった。日本最初の医学雑誌「泰西名醫彙講」をはじめ、「外科必読」・「産科簡明(さんかかんめい)」・「和蘭文典」・「八紘通誌(はっこうつうし)」・「水蒸船説略(すいじょうせんせつりゃく)」「西征紀行」など玩甫の訳述書は99部160冊余りが現在確認されている。その分野は医学・語学・西洋史・兵学・宗教学と広範囲にわたる。文久3年(18℃3)に没した。

牧 穆中(まき ぽくちゅう)(1809−1863)

 文化6年(1809)真嶋郡久世原方(現真庭郡久世町)の医師牧主計の子として生まれた。名は一郎、天穆(てんばく)と称し、培蘭(ばいらん)・寿山(じゅさん)と号した。箕作阮甫に学び、一時浜松藩水野忠邦に仕えたが、辞して江戸で開業。のち、横浜に移り、専ら翻訳を業とした。文久3年(1863)に没した。

箕作秋坪(しゅうへい)(1825−1868)

箕作秋坪  津山藩預所学校付儒者菊池文理の次男として文政8年(1825)備中呰部(あざえ)に生まれた。江戸に出て箕作阮甫の門人になり、のちに緒方洪庵の適塾に入門した。
 その後、玩甫の養子となり、幕府天文台に入った。天文台では翻訳に従事し、安政6年(1859)蕃所調所の教授手伝となった。文久元年(1861)に福沢諭吉らとともに、ヨーロッパヘ、また、慶応2年(1866)には国境交渉のためにロシアヘ出発した。明治維新後、江戸の津山藩邸内に「三叉塾(さんさじゅく)」を開き、「明六社(めいろくしゃ)」に参加して文明開化に尽くした。また、子孫には有名な学者を輩出した。明治19年(1886)に没した。

仁木永祐(1830−1902)

仁木永祐 医療器具  天保元年(1830)東北条郡下津川村(現苫田那加茂町)に生まれ、現津山市籾保の医師仁木隆助の養子となった。嘉永元年(1848)江戸に出て箕作阮甫・宇田川興斎に入門し、医学を修めた。その後、郷里に帰り医業の傍ら籾山校を開き近在の子弟の教育にあたった。明治になって自由民権運動に参加する。明治35年(1902)に没した。

宇田川興斎(1821−1887)

英吉利文典  名は濾(えい)、号は仙嶼(せんしょ)。美濃大垣の医師飯沼慾斎の三男として文政4年(1821)に生まれ、宇田川榕菴の養子となる。のち、蕃書和解御用手伝となり箕作玩甫らと共に「日本風俗備考」等の翻訳にあたった。また、時勢を顧みて、英学に手をつけ、「英吉利文典(イギリスぷんてん)」ほ著したほか、「万宝新書」・「山砲用法」等訳書も多い。廃藩後一時津山北町に住んだが、間もなく東京に移り、明治20年(1887)に没した。

久原洪哉(1824−1896)

久原洪哉 外科医術絵巻  文政7年(1824)西北条郡井村(現苫田郡鏡野町)に生まれ、石川元翠(いしかわげんすい)・広瀬元恭(ひろせげんきょう)に蘭学を、華岡南洋(なんよう)に外科を学ぶ。明治3年(1870)には津山藩主夫人の乳癌の手術をした。長男躬弦(みつる)は貢進生として大学南校に進み、京都大学教授および総長となった。また、津山藩医久原家の初代良賢(よしかた)(甫雲)は、西玄甫よりオランダ流外科免許状を授与された。明治29年(1896)に没した。

津田真道(1829−1903)

津田真道 泰西国法論  文政12年(1829)東南条郡林田町(現津山市上之町)に生まれる。幼時に漢学と国学を学び、のち、江戸に遊学、箕作阮甫・伊東玄朴(いとうげんぽく)に蘭学を、佐久間象山(さくましょうざん)に兵学を学んだ。安政3年(1856)蕃書調所の教授手伝となり、オランダに留学、帰朝後、明治政府に出仕した。また、明六社に参画し、明六雑誌に種々の論文を発表した。司法省陸軍省・元老院議官を歴任し、衆議院議員・同副議長・貴族院議員となり、法学博士を授けられ男爵となった。明治36年(1903)に没した。



中庭中庭

展示室展示室

〔津山洋学資料館案内〕

●会館時間午前9時〜午後5時
(ただし入館は午後4時30分まで)
●休館日月曜日・祝祭日の翌日・12月27日〜1月4日

●入館料
区分個人団体
一般150円120円
高校生・大学生100円80円
小学生・中学生50円40円
(ただし団体は30名以上)
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